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1 「生活教育」に向けて
  • 教育は生きる力を磨き深めることであらねばならぬ。かくして我等の教育のプランの上には,「生活深化」の概念を力強く高潮せずには居られないのである。(p.4)
  • 学習は只どこまでも,生活によって生活を学ぶことでなければならぬ。生活を生活させ,その生活を指導することが即ち教育である。(p.27)
『体験生活深化の真教育』大正15年(1925),東洋図書
  • 「生は生そのものによってのみ始めて理解される。」生活はその社会関係に於いて「生活により」(pala vie)その目的関係に於いて「生活にまで」(pour la vie)直接具体的なる全姿相を,教育者の陶冶と指導の前に如実に具現するであらう。かくて吾々は「生活による生活にまでの教育」を生活教育と呼ぶ。(p.23)
  • 生活は,自ら目的を立てて価値実現をなすの過程である。而して,目的追求の活動は,動的なる統一の活動,即ち一定の状態に於ける統一を保持しつつ,そのまま進展してより高き統一に進む創造的・発展的なる活動である。……されば,教育の仕事は,この人間の内面性に出発し生活の真実相に生きて働くべきである。即ち,教育は被教育者の中に秘められて在るものが,目的の追求実現に邁進する活動に対しての助成作用に外ならぬ。(p.26)
『生活教育の実践』昭和10年(1935),東洋図書
  • 私どもの生活学校の理論的立場は,単に学習の生活化というごとき方法的立場に立つのではなくて,生活自体が学習でなければならないとの目的的立場を含めて,生活が教育全領域を掩うとの立場をとった。それが理論的には正しいし,又そうでなければならないと信じているのであるが,実践面にふれてくると仲々問題のぞく出である。(p.1)
『生活教育研究第1集 序』昭和23年(1948)

1 「生活教育」に向けて

  1. 第3回小学教育研究会(大正7年6月)
    この研究会のなかで,「自学的訓練」,「自学的教育」という言葉が頻繁に使われている。
    「自学」とは「自ら学ぶべき必要を感じ,目的を自覚し,その方法を工夫し,自力をもってその目的に到達すべきことなり」と位置づけられていた。子どもたちの自発性に重きをおいた教育の実践が活発になってきていることがわかる。
  2. 第4回小学教育研究会(大正8年6月)
    この研究会で石田利作訓導が講話「学習法の改善」のなかで,「生活教育」という言葉を用いている。子ども一人一人の個性や生活体験を大切にするという新教育の実践が深まってきたことを示している。

2 「生活教育」の実践の道筋

  1. 大正9年 特設学級の設置
    特設学級は,尋常科第1学年から第6学年まで構成児童を固定して,岩瀬六郎訓導が担任を継続した。特設学級は,男子17名,女子17名の計34名の学級とした。
    「個性の尊重」,「心情の陶冶」,「科学的研究の基礎の上に立つ理論と実際の契合」を教育方針とし,実践的研究を推進するものであった。
  2. 大正・昭和初期の生活教育の主張
    大正10年,直観科を設け,自然学習を深める研究を開始する。これは,第1学年から第4学年に設け,自然の観察,自然と人間との関係や処理を学習内容とし,第5学年,第6学年の理科に発展するものであった。
    そして,大正14年には,問題解決学習の実際的理論を確立し,生活教育を主張し,自由研究を特設した。この教育研究の結果をまとめて,大正15年(1925)に『体験生活深化の真教育』(東洋図書)を出版した。
    この一連の生活教育の実践は,「直観科」から進んで「生活科」(小さな子供らへの生活科・大きな子供らへの生活科)の設定となり,さらに生活単元による「生活課程」へと発展していった。
    昭和初期は,教育課程を「生活課程」(生活科・全生活の指導)と「教科課程」(各分科・分割した生活の各部面の指導)の二本立てで考えていた。しかし,一般の「教科課程」の抽象性と論理性とを,個性的な児童生活の具体性と心理性とに還元しようとする意図をもって「生活課程」を運用することにより,その二元性を克服しようとしていたことも文献より読める。そして,その成果を昭和10年(1935)『生活教育の実践』(東洋図書)にまとめ,出版した。
  3. 戦後の生活教育
    戦後の試みとして,単に学習の生活化という方法的立場に立つのではなく,生活自体が学習でなければならないという目的的立場をも含めて,生活が教育全領域をおおうという見解のもとに,生活単元の再構成を行った。その結果,昭和初期の「生活課程」と「教科課程」を一本にして「教育課程」にしている。その後,昭和30年,昭和初期のように二本立てになった。
    昭和33年,これまでの二本立てを各教科・道徳・特別教育活動および学校行事等の名称,区分によって構成しなおした。そして,その成果を昭和35年(1960)『生活深化の教育体系』(東洋館)として出版した。
    その後,子どもの生活と教科を結びつけ,人間性を育てる生活単元学習を中心とした生活教育の実践を行ってきた。そのなかで,授業における教材とその展開の研究の成果を,昭和42年(1967)には『読みの楽しさを育てる読解指導』(明治図書),集合の考えを生かした算数指導』(明治図書),『四次元の造形教育・子どもの車』(明治図書)を,昭和44年(1969)には,『問題意識を育てる社会科導』(明治図書),『自然を統一的にみる理科の指導』(明治図書)を出版した。また,昭和46年(1971)には『授業を創造する人間関係』(明治図書)を出版している。
    そして,生活教育を標榜した授業づくりの確立をめざし,求める子どもの姿を具体化し,その実現を図るための教師支援のあり方を明らかにし,その成果を発表することで,研究を高めていった。それが,『具体的な授業とは』(1976,黎明書房),『問いつづける子ども』(1981,明治図書),『子どもとともに創る授業』(1985,明治図書),『生活を拓く授業』(1988,明治図書),『この子の輝く授業』(1992,明治図書),『未来を生きぬく子ども』(1996,明治図書)の出版本である。
    生活教育の実践を進めるなか,「生活科」(小1・2年),総合的な学習として「くすのき学習」(小3〜6年)を教育課程に導入した。そして,その授業づくりと授業実践の成果を『新たな自分を創る子ども』(2000,明治図書)で発表した。その後,本校の大正期の生活教育に位置づけられていた「生活科」にならい,平成13年(2001),全学年を通し「くすのき学習」とした。
    現在は,子どもの学びの経験に着目し,生活教育におけるカリキュラムのあり方について明らかにし,その授業づくりの成果をまとめている。それが,平成16年(2004)『学びの経験を生かす授業』として出版予定である。

    3 「生活教育」の内容
    生活教育について,『体験生活深化の真教育』(1925,東洋図書),『生活教育の実践』(1935,東洋図書)に詳しい。ここでは,2冊の出版本の内容を引用することで,生活教育について明記する。
     

    1. 『体験生活深化の真教育』(1925,東洋図書)
      前編 真教育一般論
       第一章 「真(まこと)の教育」への直進
        一 迷ひ −教師の迷い 教育の迷い




       
       世は進む。人は進む。教育も亦進む。それは人間の進展の真実さから,当然かくあるべきの姿である。真理は変わらぬけれども,事実は変わる。進展する。人の生活は深化する。その進展を,深化を,肯定するでなければ信念は畢竟するにこだはるための枷に過ぎない。生の悦びの享受,生活の深化,そこに我々の教育の「ねらい」はある。我々はこの信念によってはじめて,模倣よりは独創の,理屈よりは無言の,はでよりはじみの,名よりは真実の,そして素直に真剣な,熱と愛との教育に精進することができるのである。(pp.9-10)
        二 見識 −真実を見るための見識
          
       第二章 「真(まこと)の生活」への学習
        一 生活の分析 −教育の組織の確立










       
       生活は一面に於て分割なき混沌の姿を示す。けれども又生活の自らなる深化発展は,他の一面に於て,その混沌からぬけでたところの分割の姿を示す。心の要求の向かふ方向,即ち「生活の態度」によって,科学の生活,芸術の生活,道徳の生活,宗教の生活を分化する。又社会的個人としての人間の存在は,その個人と社会との関係に於て,様々なる「生活の様式」を分立する。かくして生じた分化と分立との生活は,常に必然的にその生活の実現を区切るところの「時」と「場所」との交渉に於て,又自らの分割の姿をあらはす。然もその分割されたる生活の一つ一つは概念の上に於てこそ,明らかなる独立の姿を示せ,生活全体の姿に於ては,互に相依り相連続して,更に大なる一つの生命の流れとして,「より高き統一の混沌」を示す。此の「より高き統一の混沌」を特に「生活一元」と名づける。
       教育の組織は,生活の混沌と生活の一元とから「生活科」の部面を生み,生活の分から各分科の部面を生み,更に生活の分立から学習の様式の部面を立て,生活の分割からは学習の時間と場所との部面を設け,しかも生活一元の全体の姿が,そのままに「学習一元」の「より高き統一の混沌」の実相である事によって打ち立てられる。(pp.26-27)
        二 生活の混沌 −合科ではない生活科







       
       生活深化の教育は,唯子供らの混沌たる生活そのままの姿を生活することによって,いつとはなしに,常に全体として,生活をより便利に,より愉快に,より安定に,又より科学的に,より芸術的に,より道徳的に,より宗教的に指導しやうとするのみである。即ち全人としての生活を深めるのだ。そこまでも「分割なき生活の混沌たる姿のままに」である。(p.31)
       小さい子供たちのその生活科は,唯生活をよりよく生活して行けばよいのだ。彼等は未だ予定を立てて生活を分割することを知らない。兎を飼ふなら兎を真剣に飼へばよい。兎を愛してやればよい。兎について本当に興味が起こったら,その興味に従って,自分の好むところを生活すればよい。先生は,子供と共に楽しみ子供と共に苦しみ,又子供と共に祈ればよい。合科ではない生活科,それを愛する教へ子の前に,教師の真心をこめて捧げたい。(p.32)
        三 生活の分化 −学習材料についての省察








       
      「教科の学習」は生活から自然に分化した心の態度とその向ふ対象とによって自ら一つの纏まりを有った独特の生活を作る。すべて一つの纏まりを有ったものには,その纏まりの中心がある。生活の態度の進化,発展やその対象の開展には,又必ずその纏まりに即した所の自らなる系統がある。(p.34)
       学習の向ふ対象は即ち学習の材料である。各教科の学習の材料の組織は大体に於て,これを共通材料と自由材料との二つに分ける。しかして共通材料には必ず材料の系統を予想する。(p.35)
       共通材料には「ねばならぬ」という責任がつく。……しかし,子供らが,社会的個人としての人間の存在を自覚することができたなら,已にその共通材料のあることによって,却って自分を真の自由に生かして呉れるものであるといふことと「ねばならぬ」責任は当然己自らが,求めて折っているところのものであることと気付くだらう。(p.37)
       自由材料は子供らが,それぞれに己の生活を生活しつつ,その全生活の広い対象のなかから,その教科に最もよく該当する部分を切り取って来ることによってのみ生れる。(p.38)
       
        四 生活の分立 −学習様式の種種相










        










       
      個人学習
       学習様式が,もしその自由なる第一の境地を求めるならば,将にかくのごとき個人基本,隣人相助の人間生活の実相を,学習の第一の様式として取り入れなければならぬ。(p.39)
       個人で学ぶも友達に相談するも,先生に教へて貰ふも,全然望に任せられて必要に応じて行はるべき自由なる境地にある。それを強いて今は独自の学習だから友達にきいてはならぬ。今は分団の学習だから友達と相談してやらねばならぬ。といふ程それほど型にはまりこんだ仕方に陥ってはいけない。任意に個人として学び任意に隣人として助け合ふ。この自由なる学習を特に個人学習と名づける。(p.40)
       それらの子供の心持をよく察しての上で教師は子供の質問に答へてやり度い。その子供の平常の行き方と其の時其の時の心の様子とをよく考へて学習の態度を導いてやりたい。個人学習の指導の要訣は茲に存する。(p.41)
       教材には教材の本質がある。その本質に即しての「当然かくあらねばならぬ。」学習の仕方がある。その学習に徹するでなければ,ほんとうの個人学習の効果はあがらない。(p.42)
      団体学習
       協同学習
       子供の提出する問題は,……寧ろ己を確かめようとするための,内心から湧き起こる学究の心を満たさんがための問題であらねばならぬ。そして分からない子はきくのだ。知っている子は教へてやるのだ。みんなして研究するのだ。先生は研究の一員として,その真剣な空気の中にひたり込むのだ。同時に子供らの指導者として年長者としての自分を絶えずしっかり見つめて行くのだ。発表は止むに止まれぬ子供の発表欲からすなほに生れ出たものでなければならない。討議は互に愛し合ひ導き合ふものの心が形の上にあらはれて色とりどりの花を咲かせるものでなくてはならぬ。(p.52)
       聴講学習
       先へ先へと急がせる自由進度の学習や,問題討議が唯一の華やかな場面としていつも研究授業に歓迎される新教育には,反省とか整理とかの場面が乏しい。反省や整理は教師がしてやるのではない。子供自身にさせるのだ。常に自己を凝視め,生活を深めていくことの指導のためには,学習の反省整理といふことも,なくてはならぬ大切な仕事の一つだと思ふ。(p.56) 
        五 生活の分割 −環境の多様と学校施設の実際










        
       
       時間と場所とによって生活を分割することは,時間と場所とによってその生活を束縛されることではない。人間生活の予定的な目的意識によって時と場所とを生かし使はうとするものである。(p.58)
       真の教育は常に子供の生活の総てを,従って子供の学習の総てを指導し得るの立場に立たねばならぬ。この立場に立って,真の教育のとるべき手段は一つには生活の場所としての学校の環境を能ふ限りよりよきものにする努力を続けること,他の一つには彼等のその全生活を指導すべく,「大きな子供らへの生活科」を設けること,その二つより外あり得ない。(p.59)
       学校の環境は整理するといふよりは,寧ろ多様であらしめることに努力したい。多様なる環境の中に於ける多様なる経験,その生活の指導こそ,真に子供らの個性を知り個性を生かす学習となり,生活深化の真教育の正しき手段となるであらう。(pp.59-60)
       生活深化の学習が,その正しい生活の進化のために,自由を尊重することはいふまでもない。材料の自由と方法の自由と,時間の自由との三つが,予定ある目的意識の内面的要求によって,生活を分割して行く学習時間の運用のために,どうしてもなくてはならぬものは,児童自ら立てて学習を遂行するところの,予定及び進度表である。(p.62)
       
        六 生活の一元 −大きな子供等への生活科




           










       
       職工の労働,学者の研究,政治家の獅子吼,,それらの生活のその間間を埋め,生活を連続していくものは,やはり分割の生活ではなくて混沌なる姿のままの生活である。しかもそれは,「より高き統一の混沌」の生活,即ち「生活一元」の最も如実にあらはれた生活の姿である。……如何なる職工も如何なる学者も,亦如何なる政治家も如何なる商人も,その専門の立場を離れて,確とした予定のない,明らかな分割のない個人としての,家庭の人としての,隣人としての,社会人としての生活には,常に生活全体によって深められたところの鋭い理知の光も輝けば,温い情感の香りも漂ひ,又抑へ難い良心の閃きもあらはれ,清い祈りの感謝も湧く。その高き混沌の姿そのままを生活させるところの機会が学校の時間の中に設けられ絶えずより深くより深くへと指導せられていく。かうした意味の生活科が,どうして大きな子供らのために必要ないと言はれようか。(pp.64-65)
       かうした色々の意味に於てうち立てられたところの生活科は,その時間内に於て,どれどれの事をせねばならぬとか,どれどれの事をしてはならぬとかいふ範囲と束縛は有たぬ。従って又それには材料の系統とか指導の系統とかいふものはない。唯彼等が常によりよく全人としての生活を生活すればよいのである。けれども今試みにその生活科の生活内容を彙類してみるならば,大体次の如くである。
       1 其の時その場合に応じたところの,内心の要求からの生活を生活する。
       2 生活の予定構案をする。
       3 生活の仕方についてのあらゆる研究をする。
       4 生活の反省鑑賞をする。         (p.66)
       生活科では全生活を指導する。各分科では,分割せられたる生活の各部面を指導する。この二つが互いに相俟って全体の人間といふものの生活を深めていくものであるところに真教育の真髄は存する。(p.70)
       第三章 「真(まこと)の心」を捧げての訓育
        一 子供の心 −自由と個性との尊重


       子供の欲求の生々とした実現,それを妨げるものの一切の排除,子供の欲求をすべて滞りなく満たし得る環境の構成,そしてその中に子供を解放せよ。教師は叱ったり,褒めたり,いらぬ干渉をする必要はない。さうしてさへ置けば子供はぐんぐん伸びて行く。なまじっかな干渉を教師がするから,知らず知らずの間に子供の心をこはしていくのだ。自由の尊重!個性の尊重!(pp.72-73) 
        二 親の心 −子を愛するが故に



        
       日々の生活の上にあらはれて来る様々の出来事に対して常にさとく機会を捉へることである。又人々の心が皆々浅薄に利己的に荒んで行く現今の社会を救ふがためには本当に社会的個人としての人間の存在を自覚させることが大切である。……「さうせずにはいられない。」教師の真心からにじみ出たところのもので
      なければならぬ。又個人が本当によいものになることによって自然とさうなって行くやうな意味のものでなければならぬ。(pp77-78)
      後編 真教育各論
         (以下略) 

    2. 『生活教育の実践』(1935,東洋図書)
      序論
       一 生活教育の文化理念
       二 生活教育の文化性格

      正篇
      第一章 生活教育の本質
       第一節 生活の意義
       第二節 生活の様相
       第三節 生活教育の意義




       
       生活教育とは教育方法論に於ける一の主張の提示ではない。「教育即生活,生活即教育」なる教育本質観の全面的理解と総合的実践との自覚である。生活は幼児に於ける自然律の規制する反射的・衝動的生活より始まるであらう。又生活は論理的価値概念としては,労作と行為との成人生活を意味するであらう。……「生は生そのものによってのみ始めて理解される。」生活はその社会関係に於いて「生活により」(pa la vie)その目的関係に於いて「生活にまで」(pour la vie)直接具体的なる全姿相を,教育者の陶冶と指導の前に如実に具現するであらう。かくて吾々は「生活による生活にまでの教育」を生活教育と呼ぶ。(p.23)
      第二章 生活教育の原理
       第一節 目的性の原理



















       
       生活は,自ら目的を立てて価値実現をなすの過程である。而して,目的追求の活動は,動的なる統一の活動,即ち一定の状態に於ける統一を保持しつつ,そのまま進展してより高き統一に進む創造的・発展的なる活動である。……されば,教育の仕事は,この人間の内面性に出発し生活の真実相に生きて働くべきである。即ち,教育は被教育者の中に秘められて在るものが,目的の追求実現に邁進する活動に対しての助成作用に外ならぬ。(p.26)
      自発活動の重視
       目的追求実現の生活活動の本源は,自らの内に燃ゆる自己発動の生命力にある。自らが発動して目的を立て,自らを統制し,かくて進展するところに生活の真実の相がある。而して,児童はきわめて溌剌旺盛なる自発活動を営むものである。とはいへ,そは恣意放縦を意味するものではない。感覚的・衝動的なる活動は,これを価値生活への進展へと止揚しなければならぬ。真の自発活動は,努力的・歓喜的なる目的追求の活動である。この自発活動の覚醒が教育の核心である。(pp.26-27)
       児童の自発性の触発は奨励・賞讃の方法にあり,従って生活事前・事中・事後の指導をなすことによって可能である。児童と共に計画し,共に生活し,共に反省し,その中に於いて彼等の生命力を燃焼せしめるというところに教育の秘訣がある。(p.28)
      創造発展活動の尊重
       文化財獲得・文化価値実現の過程は,即ち創造発展そのものである。価値の追求と実現とを日々新たにして日本独自の文化を建設創造するところに,我々日本人としての真実の生活があり,従ってここに日本教育の目的がある。……教育が,人間の創造発展活動に立つ限り,単なる知識・結果の附与・蓄積に汲々たることは許されない。知識は,構成し終へられたものとして吾々を導くものではあるが,現実生活から乖離してはそれ自体何らの発動をも持たない。教育はあくまでも,かかる概念の世界に終始することなく,人間の生きた生活活動に即し創造発展性による依據して営まれるべきである。即ち,児童自らが目的を立て,計画し,実行して,これを反省するの実行過程を辿らしめ,以てより高き発展を企求するの生活をなさしめねばならぬ。従って,目的を意識し自覚しての生活活動を営ますことを必要とする。(pp.28-29) 
       第二節 特殊性の原理












       
       生活は,特殊的なる存在である。そは,人間各自の本源的傾向素質の特殊に基き,特殊的なる自発・創造・発展的なる目的活動に発して,各自の独自なる体験の集積されたる一全体であるからである。即ち自発的・創造的・発展的なる生活活動は,その目的追求の過程に於いて,次第に固定したる習慣の全体を作り,過去の全体験の謂はば結晶を具現する。従って,そのものは,各自の先天的・本源的素質の相違に基き,更に後天的なる独自の体験を集積したるものを宿している。……特殊が人間としての全体的なる独自性を意味するとき,特殊性は完きものとなる。即ち,個性は特殊の仕方に於いて全体を映ずる鏡であり,全体を実現する器である。換言すれば,価値追求の目的活動をなす人間生命の本質が発揮せられて,個体に存する一般性が具現せられるのである。(pp.29-30)
      個性の尊重
       まことに教育は生々溌剌たる具体的人間の陶冶である。生きたる具体の生活,それが教育の問題である。吾々はあくまでも生きてここにかくあるものの真の具体的生活に於いて教育を営まなくてはならぬ。即ち,素材的特殊性なる個性に教育の出発点を置き,価値的・全体的独自性を教育の目的として営むべきである。……従って教師は自らが児童のうちに秘められたるものを看破して自覚せしめることが必要であり,種々なる労作体験に訴へて自ら発見せしめ,自ら確信を持たせることが肝要である。児童自らの独自性を十分に働かしめ,自発的・創造的に学習生活を営ませなければならぬ。(pp.30-31)  
       第三節 地位性の原理








































       
       生活とは,他との関係,環境との相関関係である。目的的・特殊的なる人間と環境との相関関係・相互作用である。人間は,いつも環境に規定せられ,同時にこれに働き返すものとして存在する。この相関関係を地位といひ,生活は必ず地位に於いて営まれる。而して,地位は偶然的な存在ではなく,刻苦精励して打開創造するところの物である。かくて,ここに生活の社会性があり従って歴史性がある。(p.32)
      直接体験の尊重
       生活が地位にある以上,それは地位に於いてのみ陶冶される。生活は生活によりて陶冶せよ。事実は事実をもって捕捉せしめよ。即ち事実を直接具体的に経験すること,換言すれば対象を具体的に経験することにこそ真実の陶冶がある。(p.34)
       野の花は野に於いて直接せしめよ。吾々は勇敢に生々たる現実の中に深き生活をさせることを原則としなければならぬ。我が校が本姿に生き,現地学習,臨機学習を提唱・実践するその根源はここにある。即ち教育が二十坪の教室に籠城することを戒めて,敢然生きた生活に立ち,直接経験によって事物現象の真実相を,その意味価値を生けるままに把握体認することを希うての結果に外ならぬ。(p.34)
       直接経験は単に,外面的・感覚的なる事物現象を直接に経験するに止まるべきではない。事実現象の裡に生きたる内面的意味精神を直接に体認することでなければならぬ。自然的現象の直接経験に,その内にひそむ自然の心を読み,国家的行事にその意味精神を直接に経験して,国民精神を体得するこその直接経験である。(pp.34-35)
      労作鍛錬の尊重
       労作とは生活進度を目指す霊が肉を指導する努力である。価値追求・目的完成のために困難障碍を克服する努力である。従って,霊を根幹とする霊肉協働の実践行である。労作によって真に具体なるものが体得される。実に労作は対象の内在的価値を生きた人格力に形成して行く貴き機縁である。かくて直接経験は,体験によりその真意義を発揮し,体験は労作によって悠々深化する。(p.35)
       労作は艱難の克服である。労作は目的自覚による自発的の意欲・興味を必要とし,それあることによって艱難克服の真の労作は敢行される。……我が校はここに覚るところあり,精進鍛錬による生活の錬成を希ひ,児童にいたましくも颯爽たる修道行を辿らしめるに努力する。例へば,鍛錬遠足を施行して身心の鍛練をはかり,或いは奉仕労作日を設けて労作鍛練を希ふが如きである。かくて吾々は今後の教育に労作鍛練の苦行道を提唱せんとするものである。(p.36)
      敬虔心の重視
       教育はあくまでも児童の敬虔心の啓培につとめなければならぬ。従って,学習に於いては単なる解剖分析の一方的方法にのみ依據するを警め,或いは又施設経営に,単なる形式的皮相的遂行のみを事とせず,よく敬虔心に立ってその意味精神の体得を希ふべきである。要は敬虔心を尊重し理念追究実現の精進行を行ずるの教育でなくてはならぬ。而して児童の敬虔心は,教育者の具体的人格に接触し之れを契機として啓培されるものにして,吾々が内面的強権の確立を念じつつあるもその根拠はここにある。(pp.36-37)
      生活団による生活の重視
       人間陶冶の一切は皆この生活団てふ社会性の原理に依って支配される。他人の真摯熱烈なる生活活動が自らの活動を示唆し躍動させるのであり,かくて人間は社会に於いてのみ育てられる。学習生活に於ける相互・共同の学習を奨励し,共同製作・共同研究を旺盛にするも,或はまた学校当番の施設に於いて奉仕・助力・責任の生活の啓培に努力するも,要はこの切実なる原則に立つものであり,或いはこの学校社会に於いて,師児協働の生活を行ずるに努力するも,すべてはこの見地によるものである。(p.37)
      環境の整理
       環境とは,単なる周囲の事物現象ではなく,人間がそれに働きかけ,またそれにより自らを培はれるところの相互関係になるのである。故に教育とはこの環境との相互関係に於いて人間を陶冶することに外ならぬ。……かくて我が校が学校精神の醸成・校風の醇化を図って教育環境としての雰囲気を尊重して,学校をして生活陶冶の道場として充実することに努力し,更に,郷土社会の自然・文化に近接せしめて郷土人としての化育を希求し,延いては,環境としての日本文化の体験により,これを通じて日本人としての感じ方・行じ方を覚らしめ,日本文化の特質を把捉せしめんとするの理由が存する。(p.38) 
       第四節 全体性の原理  













       
       全体とは部分の総和を意味するものではなく,各部分は緊密に有機的に結合して渾一体をなすところの全体である。有機的全体に於いては,分は處して全に生き,全は一にして分にはたらく。……要するに,人間は各種の価値を追求しながら,結局その人間として一の全体的価値関聯の構造として個性を有するものである。人間の全体的活動は常にかかる統一過程として現はれるの外はない。かくて,生活の陶冶はこの生活の有機的全体としての生活単元に立つとき,最も具体的に生きてなされるのである。(p.39)
      生活単元の重視
       生活単元の生活活動は,時間的・空間的に全体的関聯でなければならぬ。ここに生活の歴史性・社会性がある。而して,上述諸原理はこの意味に於ける生活活動の全体性・具体性に生きんとするの原理である。我が校が,生活の全体に生きんとして,単元の生活活動に教育営為の重点を置き,生活一元を標榜して,学校・家庭・社会の過現未に亘る生活の全体的・融合的関聯を尊重し,或は学校教育の街頭躍進を企画するもまたこの故である。(p.40)
       教育課程は児童の活動即ち生活の体系であって,その活動が発展すればよき成人の生活を具現するであらうと予想せられるものである。換言すれば,児童の生活活動が常に更新せられる過程である。……我が校はつとにここに目醒め,教育課程の名において,具体的全体観に立つ生活単元の学習過程を組織しつつ児童教育に専念邁進している。而して法定の教科内容は之を孤立せしめることなく,これを教育課程の中に統合し,全体的単元のうちに包攝して生かし,学習活動が漸く発展しては分化の形に於いて,分化的生活単元として,各教科の立場より生活全体的単元に参ずるの根本的意図の下に学習生活を営ましめている。(p.41)
       
      第三章 生活教育の課程
       第一節 生活教育と教科課程の再組織
        一 教科課程の固定

        二 教科課程の更新







       
       教科課程経験系列・活動系列と見,その経験,その活動は将来あるべき成人生活を組成するに至るものとするところの,換言すれば,教科課程を「経験更新改造の過程」とするところの考へ方に対しては,もはや異論を挟む余地はなからうと思ふ。……かくて生活教育に於ける教科課程は,どこまでも児童自身の経験・児童自身の活動に基いて構成されるべきであり,従って,それは単に文字通りの個々の教科の課程ではなく,むしろ教育全体の課程,乃至は教育的に整序されたる児童生活の課程といふべく,それ故に,「教科課程」と呼ぶよりは,むしろ「教育課程」,若しくは「生活課程」と呼ぶことの,より適切なることを思ふのである。……かくて,吾々はその教科課程の編成にあたっては,児童の生活活動を具体的・現実的なる姿に於いて整序し,その具体的な生活活動そのものの系列の中に各教科の結合を図るべき題材を求めてこれに全教科を統一し,全教育課程を一貫する系統の中におくことが理想である。(pp.48-50)
       第二節 生活教育に於ける生活単元



       児童の経験・活動を組織して教科を構成するがためには,児童のいかなる経験・活動を教科の内容として選択・決定するかが問題となる。……而して,児童のかくの如き個々の生活活動は,夫夫一つの生活の単位をなすものと見られうるものであって,これを「生活単元」と称する。一つの単元は種種の意味・価値を総合・統一した全体であるが,この一生活単元は通常一つの題材・対象を中心として行はれる。この題材を吾々は「生活題材」と称するのである。……然らば,いかにしてこの生活題材・生活単元を選定するか。(pp.50-51) 
        一 生活単元の選定





















       
      「生活による」の生活,即ち方法としての生活と,「生活にまで」の生活,即ち目的としての生活との両面より,その基準は求められる。即ち,前者は児童生活の現実に即しての基準であり,後者は,国民生活の思想に照しての基準である。今,夫々(A)方法的基準 (B)目的的基準と呼ぶことにし,以下これに若干の説明を加へる。(p.51)
      (A)方法的選定基準
       第一に心理的といふことである。……あくまでも児童の興味・要求に基いて,彼等自身が自己の生活中より選びうる生活単元たることが必要である。
       第二は能力的といふことである。即ち,児童の心身の発達段階に即して選定されなければならない。故に,低学年に於いては常に非分科的なる大単元として設定され,高学年に進むに従って漸次分科的なる中・小単元として設定されなければならない。
       第三に全体的といふことである。児童の生活も他方的であり,多様的である。これを生活対象より見れば,自然事象・社会事象・文化事象,生活領域より見れば,家庭・学校・郷土・国家,生活形式より見れば,理論的・審美的・経済的・社会的・宗教的・政治的等々の方面がある。故に,これらの各々の方面より,児童の生活にもっとも密接なる関係を有する単元を選択することが必要である。(pp.51-52)
      (B)目的的選定基準
       第一に多方的といふことである。先にあげし如き,教育目的としての諸種の生活活動の点より見るも,これらの活動がよく調和のとれるやうに,夫夫の種類が残りなく採択されることが必要である。また,これを陶冶価値の点より見るも,同様に夫夫の方面の価値を持つ単元が,遍く選定されなければならない。
       第二に高次的といふことである。我々の生活活動は多種多様であり,その内包する価値も多種多様である。即ち,或は理論的・審美的・経済的・社会的・政治的・宗教的の六価値を,或いは真・善・美・聖の四価値を設定することができる。の何れであるにしても,より高次の価値体験をなしうるが如き単元の全我的活動を採らなくてはならない。
       第三に典型的といふことである。……児童生活の実相と国民生活の理想とは生活教育の過程に採択さるべき生活単元を規定する。それは,児童現在の生活経験から国民の理想生活へ必然的に発展すべきところの,不断に改造される生活系列であるのである。それ故に児童が教師の誘導扶掖の下に,彼等の生活を生活しつつ,自らの力によって高められてゆく価値的体験を遂げうるやうな,自発的・自主的・積極的なる自己活動としての生活単元であることが可能であり且必要である。(pp.52-53)
       
        二 生活単元の系統


























       






       
       上述の如き選定基準に照して採択された生活単元には如何なるものがあるか。……それはともかく,(A)予定事象を対象とせる生活単元と,(B)偶発事象を対象とせる生活単元たるとを問はず,(一)自然事象を対象とせる生活単元,(二)社会事象を対象とせる生活単元,(三)文化事象を対象とせる生活単元 の三者に分析することが出来るであらう。自然は人間の生活に舞台と資材とを提供し,人間の生活は社会においてのみ可能であり,社会はその活動の結果として文化を生産する。また,かくて生産された文化は更に社会を発展せしむる契機となり,向上せる社会によって進化した人間は更に自然に働きかけ,自然は又変貌を来す。(p.54)
      (A) 予定的生活単元
       (一) 自然的生活単元
        T 自然事物を対象とせる生活単元
           例 学級園 矢作川 等
        U 自然現象を対象とせる生活単元
           例 このころの気候
       (二) 社会的生活単元
        T 社会活動を対象とせる生活単元
         (1) 行政活動 例 岡崎市役所 学校自治会 等
         (2) 生産活動 例 岡崎種畜場 石材工場 等
         (3) 流通活動 例 岡崎郵便局 市の金融 等
         (4) 消費活動 例 岡崎公設市場 年の暮 等
        U 社会行事を対象とせる生活単元
         (1) 国家行事 例 新年 紀元節 等
         (2) 郷土行事 例 花まつり 竜城神社祭 等
         (3) 学校行事 例 学年始 学期始 等
         (4) 学級行事 例 月始 月末 等
       (三) 文化的生活単元
        T 文化施設を対象とせる生活単元
           例 岡崎公園 岡崎病院 等
        U 文化遺産を対象とせる生活単元
         (1) 社寺   例 竜城神社 伊賀八幡宮 等
         (2) 偉人   例 徳川家康 郷土の歴史 等 
      (B) 偶発的生活単元
       (一) 自然的生活単元  例 岩津地方の暴風雨 
       (二) 社会的生活単元  例 満州国皇帝陛下のご来訪
       (三) 文化的生活単元  例 岡崎健康相談所の新設
       かくの如き生活単元の生起によって,児童は新たなる経験・活動を生活することとなり,従って,予め設定せる生活系列・生活課程はその修正を要求される。吾々は常に偶発的生活単元の生起には細心にして鋭敏なる関心を持し,その陶冶価値を正当に認識して,児童の生活課程の中に摂取し,以て生活課程がどこまでも現実的・具体的意味を失わないことに,最大の考慮を払うべきである。(pp.54-60)
       
       三節 生活教育に於ける生活課程
        一 生活課程の組織




       
       吾々の「生活課程」は,次の如き必然的発展の基礎原則を具現するものでなくてはならない。
       第一に,これをその生活目的より観た場合,自然的より価値的への必然的展開がなくてはならない,といふことである。…… 第二にこれをその生活対象より観たる場合,個人的より社会的への必然的展開がなくてはならない,といふことである。……第三に,これをその生活形態より観たる場合,全体的より分化的への必然的展開がなくてはならない,といふことである。(pp.61-63)
        二 生活課程の運用












       
      「生活課程」を実際に運用するにあたって,先づ問題となるのはその時間であらう。……即ち,先づ第一に,従来学習の一時限を四十五分授業の十五分休憩,若しくは五十分授業の十分休憩としていたのを,我が校に於いては四十分を所謂授業と四十分を休憩とし,かくてその差だけ生じたる剰余の時間を「生活時間」に充当している。……次にまた各教科学習時間より夫夫その一割の時間を割いて,同様にこれも生活時間に繰入れている。
       これで果たして,教科学習の万全を期しうるであらうか。この疑問に対しては,吾々は次の二点よりその解答をなしうるのである。……普通,授業の名において行事に費やしている時間を,我が校に於いては生活時間としてありのままに細目に計上しているのである。
       次に各生活単元に於ける生活指導の実際を考へて見たい。……生活単元そのものの生活の中に於いても,教科の学習は何らかの程度に於いて遂行されているのである。以上の二点によって授業総時数の二割乃至三割に相当する生活時間の設定が,教科学習の時間数を削減してその成績を低下せしめるものでは決してなく,却って学習時間を最も合理的に能率的に活用せんとするものであることを知り得るであらう。
       次に時間割をいかにすべきであるか。……我が校に於いては各月を単位として可動的な時間割を編成し,これによって,各生活単元の生活及びそれに統合される教科,並びに各教科独立の学習の全体を円滑に進行させるべく企画しているのである。この可動的時間割を「生活予定表」と名づけている。(pp.67-69)
      第四章 生活教育の実相 (以下略) 


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